さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

映画『ヴィレッジ』と村社会の闇

 いろんなところで「つまんない」って言われているんだけど、個人的に好きな映画について思うところを少し書いていきます。なんか背後を考えたら結構面白いと思うのねコレ。以下ネタバレを前提に書いていくので鑑賞予定のある方はお帰りください。映画を観てからあーだこーだいう系の文章なので、この映画を観た人だけがおもしろいお話です。

 

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 『シックス・センス』のシャマラン監督と言うことでなんだか異様に期待値が高くてそれゆえの低評価というのもあると思います。あと日本では完全に「ホラー映画」として紹介されていた面もあるのでこれをホラーとするならば確かに物足りない。その辺のマーケティングのズレもあるんじゃないかなぁ。それは『ベイマックス』と同じ。

 

【映画の種明かし】

 上記のとおり、この映画に「お化け」は出てこない。しかし、「お化け」を装っているうちに最終的に「お化け」は生み出されてしまったというのがこの映画の結末だ。つまり一番怖いのは「人間の想像力」というところだろうか。

 

 映画の内容を観ていくと、この閉鎖的な村の成り立った背景がまず特異である。「犯罪被害にあった遺族が、悲しみの再生産を行わせないために新しいユートピアを築く」という目的で外部と一切を遮断するために作られたのがこの「村」だった。それで生まれてくる子供たちに外への興味を持たせないために作り出したのが「怪物」で、「森の中に怪物がいるから入ってはいけないよ」と脅したというわけ。

 

 それで冒頭などでちょくちょく怪物っぽい何かがやってくるシーンがあって、この辺はスリルというか手に汗握るドキドキ展開でいい感じなのですが、つまりは村の大人が交代で脅かすためにやっていること。物語終盤にいくにつれてハリボテがどんどん剥がれていく感じがある意味たまらない。金田一映画で「猟奇的」とされた事件がどんどん人間のやった犯行であるとわかっていくような感じ。横溝正史が好きならこの感覚はわかるかもしれない。

 

人為的に作られた閉鎖空間】

 それで、この映画の最大のキモが「閉鎖空間を人為的に作り出した」と言うところだと思う。「悲しみを味わいたくない」と引きこもってしまった人々の寓話なのだと思う。村の中は全て自給自足で、生活様式としては開拓が完全に終わってない頃のアメリカと言った感じだ。冒頭で「1880年」という年代が暗示されているので、余計その辺の時代を考えてしまうのだろう。

 

 人々は「村」にいる間は特に心配もせず暮らしていける。自然と戦うことはあるが、共存するしかない他者しかいない以上、せめぎ合う自意識と戦うことはない。ある意味思考停止で暮らしていけるのが「村」の良いところだ。何も知らなければ何も感じることもなく生きていける。それが「村」の正体だった。

 

 しかし、「感じることがない」子供たちが誕生してしまう。一人は盲目の少女アイヴィー。彼女は生まれつき目が見えないのだが、現代医学の力を借りればおそらく失明は免れただろうとのことだ。娘の光と「感じることのない生活」で、村の大人は後者を選んだのだ。そしてもう一人が精神薄弱の青年ノア。彼はいつまでも幼児の精神状態で、善悪や物事の判断ができない。村の大人からすればいつまで経っても穢れを知らない無垢な彼こそ、望むべきユートピアの住人だったはずだ。

 

 ここでもう一人の重要人物が、村の外へ出たいと渇望するルシアスだ。村での生活を守りたい大人は「怪物」を演出することでルシアスを思いとどまらせ、「怪物」の存在を強固なものにしたいというものだったのだろう。その後いろいろあってルシアスは村に残り、アイヴィーは結ばれることになる。これを理解できなかったのはノアだった。ノアはアイヴィーを慕っていたので、ルシアスだけのものになるという意味がよくわからなかったのだ。ノアは訳も分からずルシアスを襲う。一命は取り留めたものの、外部からの医薬品がないとルシアスは助からない。かつて犯罪被害の悲しみから逃れた人々が、自身の作った環境によって新たな犯罪を引き起こしてしまった。もしノアも外の環境で適切な施設で学ぶことができていれば、このようなことは引き起こさなかったかもしれない。

 

 村の大人たちは盲目のアイヴィーなら外の様子がわからないということで薬を取りに行かせることにする。その際途中まで村の若者を護衛に着けるのだが、この場面がとても面白い。「怪物」の存在を信じている若者たちは村の外に出たことで不安になり、どこから「怪物」が襲ってくるかわからない不安に次々と逃げ出してしまう。実体のないものを信じることによって全ての事象を「怪物」が起こしていると錯覚し、恐怖に怯えて逃げていく様は実はこの映画の一番怖い部分なのではないだろうか。

 

 映画のクライマックスでは、アイヴィーを例の「怪物」が襲うシーンがある。実は「怪物」の衣装を見つけたノアがふざけてそれをかぶってアイヴィーを追いかけてきたのだが、必死で逃げるアイヴィーにかまけて足を滑らせ、ノアは転落死してしまう。アイヴィーはノアであることに気付かず、「怪物」から逃げられたと思う。そして発達した外の世界にアイヴィーが気付くことなく無事に薬を手に入れ、村に帰る。そして村ではノアが森の中で死んでいたことで「怪物にやられたんだ」という物語を手に入れ、更にアイヴィーが「怪物」に襲われたことでその存在を確固たるものにしてしまうという皮肉な結末が待っている。

 

【生み出された「怪物」】

 つまりこの映画の怖い部分は「怪物」本体の猟奇性ではなく、「怪物」の成り立ちをそれが生み出された過程の話なのである。無垢であることによって善悪の判断がつかず、殺人を犯そうとしたノア。また、盲目であったことで直接「怪物」を見たことがなかったアイヴィーだけが森の外へ出られたと言う部分も興味深い。これは「愛があったから」というだけでは片づけられない。見えないことが逆に真実を見ることもある。

 

 シャマランは「怪物」の怖さや意外などんでん返しだけでなく、情報統制の恐ろしさをこの映画に込めている気がしてならない。嘘も何度も言えば本当になると言うことや、善意のために悪意を隠しても更なる悲劇を生むことになるという恐ろしさがじわじわと沁み込むような映画だった。肉体的にぐちゃっとなるホラーではなく、微妙に歯車が狂った空間が永続していくホラーもあるということです。

 

 つまりは「臭いものに蓋」をしていても人間の感情そのものが「臭い」のだから、見えないようにしていてもいつかは蓋は外れるし、蓋をしていることを知らないと蓋が見えないからありふれた人間の感情そのものが「怪物」になってしまうということなのかもしれないですね。さて、あなたはちゃんと「蓋」が見えていますかね?