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さよならドルバッキー

この世の裏を知ったドルバッキーは世を儚んだ。

真面目に『かぐや姫の物語』について考えた

作品解釈

 今夜ついに地上波初登場なんですが、公開当時『かぐや姫の物語』は個人的に「アニメーション」というものを芸術として使用しているなぁと感心して、音と映像の組み合わせが人の心を動かすというものを劇場で実体験をしたみたいなそんな感じでした。思うところがあるので以下つらつらと書いていきますが、基本的に公開当時の興奮した感想記事のリメイクだと思ってください。

 

 あ、長いです。暇なときに読んでください。

 

かぐや姫の物語 [DVD]

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【物語だけ追うだけではもったいない】

 アニメーション映画の醍醐味は何と言っても現実には起こりえないことも表現できると言うことだ。最近では映像技術の発達で実写でも十分あり得ない世界を作ることは可能になったけれど、表現方法の多様さというのであればアニメにはまだ敵わない部分もある。

 

 例えば公開当時話題になった十二単を脱ぎ捨ててかぐや姫が駆け抜けるシーンは、実際に起こったものではなく、かぐや姫の精神が心ここにあらずという状態になり、精神だけが肉体から抜け出て超体験をしているというのが個人的解釈だ。古語には「あくがる」といって「心が体から離れてさまよう」という意味の言葉がある*1。まさにこの肉体を超越したシーンからそんな古代の人の考えている世界も垣間見れる。

 

 『風立ちぬ』もそうだったんだけど、主人公の精神状態をそのまま描写できるのがアニメのいいところなんだけど、視聴者がきちんと汲み取ってあげないと意味不明になってしまうのが痛いところ。実際『風立ちぬ』は主人公の心情描写が多くて何が何だかわからないまま終わってしまったのではないだろうか。

 

 是非この映画を観るときは物語をなぞるだけでなく、背景の描かれ方やちょっとした間の取り方、流れる線の美しさや当時の風俗を「感じ」ながら見てほしい。理解する必要はない。感じることが出来ればそれでいい。

 

【時代が隔てている感覚】

 あくまでも千年前の価値観で物語は進んでいくので、我々の常識では考えられないことが常識として登場する。そこまで踏み込んでいければ異界の観光として楽しいのだけれど、我々と作品が対等であると思ってしまえば自分のレベルにあった作品以外は「駄作」になる。

 

 公開当時「翁は自分勝手」「かぐや姫を閉じ込めて自分の私腹を肥やしたのではないか」という評をたくさん見た。もちろんそれは現代を舞台にした現代の話であればそうなんだけど、舞台は千年前だ。我々が西暦三千年の人々の生活を想像できないように*2、過去の人々の心情も容易に想像できるものではない。過去の記録に触れなければ、時間という絶対的な断絶がそこにはある。そこを潜り抜ける古典作品はやはりすぐれているけれど、同時に「意味不明」になっていくのだろうと思う。

 

 翁の話に戻ると、翁は当時の常識的な行為をしていたと思われる。娘は身分の高い男に嫁がせることが当時の幸せであり、それが女の役割であった。そこを丁寧に解釈していかないとズレる。現代でわかりやすい感じに言うと、「自由に生きたいからとバイトを掛け持ちして劇団員として演劇の世界を夢見る40前のオッサンと結婚したい」と二十歳そこそこの娘が言いだして「お前の人生だ、好きに生きろ」なんていうお父さんがどのくらいいるかってことですよ。そこは娘に「目を覚ませ」と言うはず。現代から見ると普通のことでも、当時は奇抜な考えだったんですね。眉も抜かないお歯黒もしないっていうのは、現代でいうとすっぴん上等スキンヘッドわき毛カラーみたいなものです。そりゃ親は全力で止めるよ。そういう価値観だったんだよ。

 

 

 以下観た人にしかわからない話をするので気を付けてください。

 

【捨丸とはなんだったのか】

 オリジナルキャラクターとして登場したかぐや姫の幼馴染という設定の捨丸はかぐや姫の地上での憧れの象徴と言う感じだ。しかしこの捨丸、なかなか捨て置けない奴で間違いなく初恋の人ということで一線を越えている感じはする。とにかく何よりダイナミックエロです。直接描かれない分滅茶苦茶エロティカルです。高畑監督の溢れる少女讃美と大地讃頌ならびにだだもれエロスに映画館で「うわーうわー」と思ったのはここだけの話です。以下過去記事から直接関係する部分を引用。

 

「何この壮大なエロ」って呆然としてしまいました。「究極のエコロジストは地面に穴掘ったり木の枝で地球とつながる」とかくだらない話を思い出してしまうくらい、「生命の躍動=生命の根源的行為」としかとれなかった。特に「月から目をそむける=女性性の象徴を恐れる」、「海に落下する=少女としての死」の暗示にしか見えなくて。ま、年頃の男女だし、もうすぐ帰っちゃうし、致し方ないのかなと。瓜を盗むシーンはここの伏線だったと考えると、業の深い話です、かぐや姫は。

感想「かぐや姫の物語」ネタバレ考察回 - 傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

 

 結局少女はいつかは大人になるもので、かぐや姫の場合は「子供らしい振る舞いはやめて月に還る」ことが成人したということなんだと思います。媼や女童がかぐや姫の母親的役割で、翁や家庭教師たちが父親的役割。そして捨丸はかぐや姫の抱いていた「地上」そのものです。歌い、駆け回り、自然と共に生きる捨丸のような環境に憧れてかぐや姫は地球にやってきたのです。つまりは君と致すためにこの世界に生まれたんだみたいなものだなぁと思うとやっぱりうーんダイナミックエロス。

 

【少女讃美と高畑監督】

 正直、宮崎駿よりも高畑勲のほうが現実と乖離した少女讃美をしていると思っている。『おもひでぽろぽろ』の現実パートを見てうちの母が「この女の人は夢見がちというよりただのバカで最終的に女全体をバカにしているんじゃないか」という感想をもらしていたのが印象的だった。それもこれも全て「嫁入り前の娘がふらふらと年頃の男の人のいる農家に行くと言うことがどういうことか」を肌感覚で知っているからで、この作品を大人になってから見たことを少し後悔した。

 

 確かにタエ子は27歳にしては思考が幼すぎる。それを恥じるシーンもあるのだけれど、それもなかなか「現実を生きるもの」と見るなら相当痛々しい。できれば10代のうちに済ませておいた方がいいレベルの勘違いだ。これは憧憬の中で想像の理想的な田舎を描いた現実味のない物語で、描いているモノはキレイかもしれないけれど、その物語には生きている女性がいないから説得力がない。描いているモノが卑近的なだけに、その現実と乖離した女性像がグロテスクに浮き上がって不協和音を奏でている。

 

 で、今回のかぐや姫は完全に「現実離れした場所」で「現実にいたはずのない少女」を最初から描いている。観客は自身の知っている『竹取物語』を下敷きに物語を補完してくれる。だからこの全面的な「少女讃美」が成功したのだと思う。高畑勲宮崎駿以上に卑近な場所より完全な虚構の世界で表現したほうがいいと思った次第です。ハイ。

 

【まとめ】

 途中からなかなか私見が多くてアレなんですが、自分が今のところかぐや姫に対して思うのはこんなところです。ただ直接言葉にしないで気持ちを映像に乗せているところは一級品だと思うので、是非ご覧になってくださいな。

 

 

【過去のヒートアップした『かぐや姫の物語』の記事】


感想「かぐや姫の物語」※ネタバレなし回 - 傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~


感想「かぐや姫の物語」ネタバレ考察回 - 傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~


「かぐや姫の物語」時代背景解説編 - 傍線部Aより愛を込めて ~映画の傍線部解釈~

 

 

*1:あくがるの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典

*2:だから西暦三千年の世界を舞台にした『リアル鬼ごっこ』はアレでよかったのかというアレがぬぐえない。

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