「暑い」
リビングの窓際で砂浜に打ち上げられたダイオウイカのように反り返るジロウを見て、太朗はつぶやいた。
「暑い暑い暑い、にゃーんでこんなに暑いんだにゃー」
ジロウがもぞもぞと伸びをするたびに、太朗はジロウの気持ちを代弁してやった。ジロウは人間の言葉が喋れないのでさぞ不自由だろうと「ジロウがお腹減ったって言ってるよ!」「ジロウは外に出たいんだって!」と家族に報告していたときもあったが、別にそんなことをする必要はないとだいぶ後になってからわかった。もっとも、ジロウの気持ちを完全に理解しているかどうかすらわからないことも最近になってわかったことだった。
ジロウは数年前、太朗が拾ってきた猫だ。雨の中震えている捨て猫を見つけて「どうしても他人の気がしない」と連れてきたのが始まりだ。「太朗が連れてきたからジロウだな」「タロとジロじゃ犬だよ」と家族は無責任に笑っていたが、ジロウは太朗に本当によくなついた。他の家族には猫らしくつれない態度をとることも多いが、何故か太朗にだけは甘えることが多かった。「太朗をボスだと思っているのか」「それじゃあやっぱり犬だよ」と不思議がる家族を知ってか知らずか、ジロウは相変わらず太朗のそばで「なおなお」と鳴いていた。
「なー、ジロウよー」
ジロウは太朗の呼びかけにしっぽを振って反応した。「聞いている」というサインのようだ。
「卒研がヤバいんですけどー、猫は卒研がなくていいですねー」
ジロウは相変わらず寝そべってごろごろ鳴いている。
「就活もなくていいですねー」
「んなお」
ごろごろ寝そべることに飽きたのか、ジロウは太朗の愚痴を聞くのをやめてどこかへ行ってしまった。
「お前は味方じゃないのかよ」
今度は太朗がごろごろと寝そべってテレビの電源を入れた。最新の水着ファッションや話題のアイスクリームの店など、太朗の必要としている情報は流れていない。今日は午後から雨が降るということだけが有益な情報だった。
「嫌だなー、今日は午後から研究室行こうと思っていたのに」
研究室に行けば話題はアイスクリームなどではなく、大学院入学試験を受けるか就活を進めるかのどちらかの話しかない。既に院試の出願書類を書き終えた者や内定が決まっている者は別だが、どちらにも進路を定められない者に残された時間はあとわずかしかない。次第に暑さが増していく季節に、これからの人生を左右する大きな決断をしなければいけない。これから未来について考えるなど面倒だし何より暑い。雨が降るのもだるい。何も考えたくない。
太朗にとって将来のことなど、特に意味のないことくらいにしか考えられなかった。周囲で始まった自己実現がどうとか自己分析の結果の見通しがなんだという話にも一切興味がないし、それよりも今夜の夕飯は何を食べるのかというほうが気になっていた。自分のことなど本当に興味がない。一応就職するつもりで何社か面接にも行ったが、今のところどこにも引っかかっていない。先週面接に行ったメーカーの返事もそろそろ届くころだが、おそらく落ちているだろう。
もし就職が失敗だとわかったら、院試を受けるよう親にも勧められていた。「今は大学院を出ていないと理系は就職ないんだから」と言われているけれど、自分のことにも特に興味を持っていないのにましてや研究していることなどそれほどやりたいことではない。どちらかというとさっさと就職して適当にのんびり暮らしたいなどと考えているのに、その就職活動も「最大限の自分をアピール」だったり「なりたい自分に今すぐ変わろう」だったり、暑苦しいことこの上ない。「適当に生きたい」という信念はどこにも生かされない。
悶々としていても仕方がない。太朗はテレビを消すと研究室へ出かける準備を始めた。猫のように大きく伸びをして、顔を洗うとジロウがどこからか戻ってきた。出かけようとするときに限って「暇なんだろう、構え」という表情でこちらを見つめてくる。太朗はジロウの気持ちだったら大体わかるつもりでいるが、ジロウは太朗の気持ちなど考えたことはないだろう。
「なんだ、腹でも減ったのか?」
ジロウは「んなん」と鳴いた。相手をしてもらえるのが嬉しいようだ。
「いいなあ、猫は先のことを考えなくてもよくて」
いや、猫は猫なりに将来の心配をしているのかもしれないと太朗は思い直した。太朗にとっての直近の将来像はとりあえず進学か就職かというところだったのだが、ゆくゆくは家を出て独り立ちをして、新しい家族をつくると言うこともある。そんな未来のことまで考えることはできないけれど、仮に家を出ていくことになって、そのときジロウはどうするのであろうか。
「お前、俺がいなくても生きていけるのか?」
「なー」
ジロウの「なー」は「何でもいいからうまいものをよこせ」を意味していることを太朗は知っている。猫は人の話なんて聞いちゃあいないことはわかっていても、なんとなく自分の悩みを無視された気分になる。
「わかったわかった」
棚から猫用煮干しを出して与えると、ジロウは「んなんな」と鳴きながら嬉しそうに食べる。
「お前は自由でいいなー」
「なー」
今度の「なー」は一体何であろうか。「猫の気持ちを理解する選手権」があれば上位を狙える自信のある太朗にもわからなかった。同意でもなく、また自分の欲求を訴える何かでもない。そして機嫌が悪いわけでもない。猫は気まぐれ、とよく言うが大体は何か理由があって行動している。それに人間が気が付いていないだけ、というのが太朗の持論だ。ただ目を大きく開けて、何かを訴えているのはわかった。だけどその「なー」の意味は推測しようがなかった。
「もしかして、慰めているのか?」
「なー」
おそらく同意しているのだろう。しかし猫の気持ちは猫にしかわからない。太朗はまたどこかへ行ってしまったジロウを置いて研究室へ出かけて行った。
夕方には予報通りに雨が降り、傘を差して家路についた太朗は、ちょうどジロウを拾った公園へやってきた。その日も家に帰る途中、たまたま物陰で雨に震える子猫を見つけたのがその場所だった。しかし、何故ジロウを見つけたのかは思い出せない。「それが運命だったから」というのが太朗にとって一番納得のいく答えなのだが、一般的にはまるで答えになっていない。久しぶりにその物陰を覗いてみると、驚いたことに一匹の子猫がいた。
「なんだ、ここは捨て猫スポットなのか」
不届きな奴がいる、と少々腹を立てた太朗はどうしたものかと思案した。保護したいのは山々だが、家で2匹も面倒を見れるのか太朗の一存では決められない。
その時、誰かが走って近づいてくる気配がした。捨て猫を見つけた後ろめたさから太朗は思わずその場から遠ざかった。走ってきたのは、傘を差していない少年だった。部活動で使用してるカバンを頭に乗せ、ユニフォームを着たまま走っている。太朗が立ち去った場所が気になったのか、少年は捨て猫がいる物陰までやってきた。そして子猫を見つけると、すぐに抱き上げてまた走り去っていった。
遠くからそんな光景を見つめていて、太朗はジロウを拾ったときのことをはっきり思い出した。あの時も、自分は傘を持っていなくて走って帰るところだった。そして誰かがいたから、その物陰を覗いてみようと思った。そこでジロウを見つけて、何の考えもなく拾い上げたのだった。
もし、雨が降っていなかったら太朗はいつも通りこの公園を素通りしていただろう。そして、太朗が立ち去らなかったら少年はこちらにやってきていただろうか。全てはジロウを拾ったときに酷似している。まるでその当時を目の前で再現していると言われても太朗は信じるしかなかった。
「もし、あの時に戻ってやり直せるなら……」
もっといい勉強をしていい大学に行っていただろうか。もっとたくさん遊んで友達をたくさん作っていただろうか。それとも、未来がわかっているから何もしないだろうか。それも未来のことだから、やはりわからない。
家に帰ると、ジロウがフローリングの上でごろりと道を塞いでいた。ジロウはそこを歩く人のことは考えないし、おそらく踏まれるかもしれない自分のことも考えていない。未来を予測しないのが猫である。そして、刹那的にやりたいことをやるのも猫なのである。
「邪魔なんだよお前は」
部屋の隅に強制的に移動させられてジロウは不服な顔をした。そして部屋の隅は気に入らなかったらしく、どこか居心地のいい場所を探しに行ってしまった。もし未来が居心地がいいと知れたら、貪欲な猫たちは自分で技術開発をして未来に行こうとするかもしれない。それでもこの現在にとどまっているのだから、そこそこ居心地がいいのかもしれない。
翌日、太朗が先日受けた面接の結果が届いた。この結果次第でこの先どうするかはある程度決めていた。背中に未来の自分のまなざしを多く感じながら、太朗は玄関に寝そべるジロウをどけて、眩しく日射しの照りつける玄関の扉を開けた。
≪了≫
【第5回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」
宣伝のはずなのに最終日になってしまいました。
そして今回はかなり難産でした。死ぬかと思いました。苦しみながらひり出した感じがします。そして逃げている個所もたくさんあります。そんな苦しみがいたるところにあるので見つけてもらえたら嬉しいなぁとは思います。
【過去の宣伝】
思い出したら噛み殺して ~短編小説の集い宣伝~ - 無要の葉
ハロウィンナイトに寄せて『ちいさな黒猫さん』 ~第1回短編小説の集い宣伝~ - 無要の葉